わが国では、江戸末期、幕臣・榎本武揚たちが最後まで官軍に抵抗した五稜郭戦争(箱館戦争)が明治2年(1869年)に終結し、国内が明治新政府によってほぼ統一された後、政府はそれまで「蝦夷地」と呼ばれていた地を「北海道」と改め、その開拓に力を入れていくことになります。このときに、北海道の警備と開拓にあたるために採用されたのが「屯田兵」の制度です。
 明治8年(1875年)、宮城、青森、山形の3県の士族200名ほどを募って、札幌郡琴似村に入植させました。これが北海道の屯田兵村のはじまりです。その後、全道で37に及ぶ屯田兵村が作られました。
 屯田兵の制度は、未開の大地・北海道を早急に開拓するという目的と同時に、ロシアに対する北方の守りという意味合いと、仕事を失った武士(士族)たちに仕事を与えるという目的があったといえます。また、最後まで官軍に抵抗した東北地方の士族たちの不平の芽をつみ取るという狙いもあったといえます。
 屯田兵たちは、暖房もない簡素な住まいに住み、酷寒の厳しい自然環境のもと、屯田兵村の近辺の未開の地の開墾と農作業という厳しい労働に日々打ち込みました。そしてその一方では、軍隊としての訓練も行うという非常に厳しい日々を送ったのです。
 明治37年(1904年)に屯田兵条例が廃止されるまで、この制度はつづきました。この間に北海道各地の屯田兵村で開拓に取り組んだ屯田兵の数は、約4万人といわれています。